南一郎平は、天保7(1836)年、宇佐市金屋の庄屋(村の首長)の子として生まれました。当時、一郎平の住む駅館川流域の台地は水不足で畑地としてしか利用されておらず、父・宗保(むねやす)は西国筋郡代(さいこくじぐんだい)(日田代官)塩谷大四郎の広瀬井手事業に協力していました。しかし、事業は困難で完成を見ないまま安政3(1856)年、宗保が死去します。一郎平は、「米を作り地域を豊かにするように」との宗保の遺言から、米を作るにはまず水を引くことと水利事業に取り組むことになりました。

一郎平は「一日学」「自彊不息(じきょうふそく)」を座右の銘に努力を続け、誰も不可能だった広瀬井手を完成させました。

広瀬井手完成後は、安積、那須、琵琶湖と明治の三大疎水といわれる工事にかかわり、疎水事業の父と言ってもよい活躍をしています。のちに広瀬井手完成を感謝した地元の人からのお米の提供を断るなど、人々を豊かにすることに生涯を捧げました。

●注釈「一日学」:今日一日だけはと努力し続けると、一生続けて学ぶことができること。
●注釈「自彊不息(じきょうふそく)」:休みなく努力し、自己を強化すること。


南一郎平年表

天保7年1836年宇佐市金屋で生まれる
慶応元年1865年広瀬井手(いで)の第5期工事に着手
明治2年1869年松方正義日田県知事が水路の視察を行う
国による直営工事の許可が下りる
明治3年1870年国からの援助が終了
明治6年1873年広瀬井手完工
明治7年1874年松方正義の招きにより上京、内務省農務課に勤務
明治8年1875年全国に水利開墾事業を興すため適地調査に派遣
明治11年1878年安積(あさか)疏水工事着工準備担当として
現地で指揮する
明治14年1881年北垣国道京都府知事より
琵琶湖疏水計画の実地調査依頼
明治15年1882年琵琶湖疏水の意見書、水利目論見書を提出
明治16年1883年那須疏水開削のため測量実施
明治19年1886年退官し「現業社」を興す
明治32年1899年一郎平を「尚」(ひさし)と改名
大正8年1919年死去

●注釈 井出:水路のこと