南一郎平は、天保7(1836)年、宇佐市金屋の庄屋(村の首長)の子として生まれました。当時、一郎平の住む駅館川流域の台地は水不足で畑地としてしか利用されておらず、父・宗保(むねやす)は西国筋郡代(さいこくじぐんだい)(日田代官)塩谷大四郎の広瀬井手事業に協力していました。
しかし、事業は困難で完成を見ないまま安政3(1856)年、宗保が死去します。一郎平は、「米を作り地域を豊かにするように」との宗保の遺言から、米を作るにはまず水を引くことと水利事業に取り組むことになりました。一郎平は「一日学」「自彊不息(じきょうふそく)」を座右の銘に努力を続け、誰も不可能だった広瀬井手を完成させました。
広瀬井手完成後は、安積、那須、琵琶湖と明治の三大疎水といわれる工事にかかわり、疎水事業の父と言ってもよい活躍をしています。のちに広瀬井手完成を感謝した地元の人からのお米の提供を断るなど、人々を豊かにすることに生涯を捧げました。
●注釈「一日学」:今日一日だけはと努力し続けると、一生続けて学ぶことができること。
●注釈「自彊不息(じきょうふそく)」:休みなく努力し、自己を強化すること
広瀬井手は、宇佐市院内町広瀬の取水口からはじまり、宇佐市長洲まで総延長17キロに達する水路です。難所が多く、4度工事が中断されています。
広瀬井手の総事業費は三万六千両とされており、この事業費の多くを日田の豪商・広瀬久兵衛から借用しました。当初は三千両の借用でしたが、難工事のため借金を重ね一万両以上を借りることになりました。一郎平は同時に公金も数千両借りており、借金は全部で二万両になったとされています。
明治2(1869)年、資金の尽きた一郎平は長崎総督府に広瀬井手工事の助けを求めました。総督府は松方正義日田県知事に調査させ国の事業としました。この調査によって一郎平の高い技術力を知った松方は、広瀬井手完成後、内務省の技師として一郎平を採用することとなります。
明治6(1873)年、約120年の歳月をかけて完成した広瀬井手により、水不足で粟や稗などしかできなかった駅館川東岸の台地は肥沃な水田地帯に変わりました。